2021/03/06(土)雑すぎる「太陽は動かない」
吉田修一原作のAN通信シリーズ三部作「太陽は動かない」「森は知っている」「ウォーターゲーム」のうち、前2作を元に映画化。ブルガリアで敵対する組織に拉致されたAN通信のエージェント山下(市原隼人)の救出作戦を描く冒頭のアクションはブルガリアの大通りで派手なカーチェイスが行われ、スピード感があって良い場面だ。主人公・鷹野一彦(藤原竜也)と相棒の田岡亮一(竹内涼真)の奮闘にもかかわらず、山下は爆死する。AN通信のエージェントの心臓には爆弾が埋め込まれ、24時間ごとに本部に連絡しないと爆発してしまうのだ。これは原作にある設定なのだろうが、まるでリアリティーがない。敵につかまったら、一巻の終わり、何でもベラベラ話してしまいそうだ。こういう酷薄な仕打ちをする組織は徹底的にビジネスライクで冷たい人間が運営しないと整合性がない。ところが上司の風間武(佐藤浩市)はそれとは正反対のキャラなのである。
冒頭に続いて、何の説明もなく、どこかの島の高校生たちの話になるので戸惑うが、これは鷹野の高校時代の話らしい。分かりやすくするためには年代を示す字幕を出した方が良かっただろう。原作の「森は知っている」がこの高校時代の話で、「太陽は動かない」は次世代太陽光発電を巡る機密情報の争奪戦の話。いくら次世代といっても、今さら太陽光発電かと陳腐に感じてしまう。天候によって発電量が一定しない太陽光発電は増えすぎると、電力会社には迷惑で九州ではもう増やさない方針のようだ。映画で描かれるのは宇宙空間に置いたパネルで発電し、それをマイクロ波で地球に送電、蓄えるという方式。ブルガリアの大学教授・小田部(勝野洋)はその発電方式を研究し、画期的な成果を得る。それを中国の巨大エネルギー企業CNOXが狙い、フリーの韓国人エージェント、デイビッド・キム(ピョン・ヨハン)、謎の女AYAKO(ハン・ヒョジュ)らが入り乱れて争奪戦となる。
AN通信は表向きは小さなニュース配信会社を装うが、「国や企業などあらゆる組織の機密情報を入手し、売買する組織」。たかが産業スパイに007並みの派手なアクションをさせることには無理がある。いくらエンタメでもその設定にリアリティーを持たせることは必要だろう。絵空事が絵空事で終わっていて、これでは観客の心はちっとも動かない。
2021/02/27(土)「あのこは貴族」とヒエラルキー
貴族や階級は今の日本には存在しないが、階層構造(ヒエラルキー)は厳然とある。タイトルの貴族とは金融資産5億円以上に分類される超富裕層のことだろう。その超富裕層に属する華子は27歳。周囲から早く結婚するように圧力がかかり、婚活に励むが、なかなか好きになれる相手は見つからない。そんな時、義兄の紹介で、代々続く家柄出身の弁護士・青木幸一郎(高良健吾)とお見合いをする。ハンサムな青木に見とれてしまった華子は再び会うことを約束し、帰りのタクシーの中で「こんなことってあるのでしょうか?」とつぶやく。2人は順調に交際を深めて婚約する。ある日、華子は青木のスマホに見知らぬ女から「私の充電器持って帰らなかった?」というSMSが来たのを見てしまう。
その女、時岡美紀は富山出身。猛勉強の末、慶応大学に入学して、慶応生は幼稚舎からエスカレーター式に進学してきた内部生と、受験で入ってきた外部生に分類されるのを知る。内部生たちは裕福な家庭出身で、お金の使い方も外部生とは違う。美紀は父親の失業で学費を自分で稼ぐことになり、キャバクラで働くが、払いきれずに大学を中退。水商売を経て就職する。青木と出会ったのは大学時代で、水商売時代に偶然再会してそのままずるずると関係を続けていた。
華子の親友でバイオリニストの相楽逸子(石橋静河)はあるパーティーに青木が美紀と一緒に来ているのを見て華子に連絡。華子と美紀は会うことになる。いわば正妻と愛人の対峙だが、敵対するわけでないのがこの映画の新しいところだ。2人を引き合わせた逸子は言う。「日本って女を分断する価値観が普通にまかり通っているじゃないですか。私、そういうの嫌なんです。本当は女同士で叩き合ったり、自尊心をすり減らす必要ないじゃないですか」。
穏やかにゆっくりと話し、いかにも超富裕層の雰囲気を漂わせる門脇麦と、強さとたくましさを備えた水原希子。その中間にいるのが超富裕層にいながら旧来の価値観に縛られず、結婚してもいつ離婚しても大丈夫なように音楽家としての自立を目指す石橋静河の役柄だ。実は育ちの良さと素直さを一番感じさせるのは石橋静河本人であったりする。
「華子と美紀の関係はある種のシスターフッド」と岨手監督は語っている。住む環境の異なる女性たちがヒエラルキーを超えることはなくても、解放のために連帯することはできる。そんな意味だろう。女性作家の原作を女性監督が繊細に演出して女優たちが素晴らしく見事に演じている。その分、高良健吾をはじめとした男性陣の描き方がややステレオタイプになっているのは残念だが、小さな傷と言っていいだろう。
2020/06/08(月)「陽のあたる坂道」再見
30年ほど前、NHK-BSで放送された石原裕次郎主演の「陽のあたる坂道」(1958年、田坂具隆監督)を見てとても感動した思い出がある。同じ原作の連続テレビドラマ(1965年、TBS)を断片的に見たことはあったが、ちゃんとした内容は知らず、映画で初めてどういう話か知ったのだった。近年、この映画のDVDは手に入りにくくなっていて、もう一度見るのは難しいかと思っていたら、Huluで配信されていた。ネットの評価を見ると、酷評している人もいる。僕の当時の見方が甘かったのかと思って再見してみた。個人的にはやはり胸を打たれる内容だった。
二部構成で3時間29分の大作。女子大生の倉本たか子(北原三枝)が、坂道にある裕福な田代家の末っ子くみ子(芦川いずみ)の家庭教師になるところから始まる。田代家はくみ子と、優秀な長男で医大生の雄吉(小高雄二)、自由奔放な次男の信次(石原裕次郎)、出版社社長の父親(千田是也)、母親(轟夕起子)の5人家族だ。このうち信次だけ母親が違うことが分かってくる。雄吉もくみ子もそれを知っているが、表面上は皆、このことを話さない。たか子は青森出身で、アパートに一人暮らし。同じアパートに住む高木トミ子(山根寿子)、民夫(川地民夫)親子と家族のような付き合いだ。そしてトミ子が実は信次の母親であることが分かる。
石坂洋次郎の原作は青春小説に分類されるらしいが、映画は家族の問題を中心に据えたホームドラマの側面が強い。監督の田坂具隆はそういう題材を得意にした人だから、これは当然の結果だろう。
くみ子は足に障害があるが、それは子どもの頃にはしごから落ちた事故のためだった。その事故は雄吉の不注意に原因があったのだが、信次は兄をかばい、事故を自分のせいにしている。これに呼応する形で信次は、ファッションモデルの女を2度堕胎させたことをヤクザに脅されている雄吉の身代わりになる。信次は自分のこととして母親に告げるが、母親はそれが雄吉のしたことであることを見抜いている。長いが、2人の対話を引用する。
「私は頭の中で雄吉とお前をちゃんと入れ替えにして聞いてたのよ。あたしがどんなにみじめな気持ちで聞いてたか、お前には想像がつくと思うけど。お前がこんな割りの悪い役を引き受けたのは、また私たち親子に対する優越感に浸りたいためからだったんじゃないの?」 「ひどいよ、ママ。第一、そんな話は兄貴のいる時にしてくださいよ」 「雄吉はきっとどこかで飲んでますよ。いくら良心のない人間だって、あんなしらじらしいことを私にしゃべった後では、お酒でも飲まないとじっとしてられないでしょうからね」 「ねえ、ママ。ママはどうして僕と兄貴が嘘をついてるって感じたんです?」 「私の方こそ聞きたいくらいよ。どうしてお前たちはくみ子のけがの時と同じ型の嘘を思いついたのかしらね」 「そう言えば、ママだって同じじゃないか。嘘だと思ったら、なぜ兄貴のいる前ですぐあばいてあげなかった?」 「分かりましたよ、信次。お前はそれを私に教えてたのね。二度も同じ嘘芝居をしてみせたのは、私の立場を昔のくみ子の折と同じにしておいて、私から雄吉の嘘を暴かせようとしたのね、それがお前の意図だったのね」 「僕は何もそんな難しいこと考えちゃいないよ。ただ、ママは知ってたんだから、小さい時からその嘘を暴いていれば、兄貴はもっと違った人間になってたかもしれないって、ただそう思っただけだよ」 「そう、お前は私の一番痛いところを突いたわね。そうなのよ、信次。私にはそれができないの。……雄吉がああいう性格に育ったのは私がそうしたんだとも言えるんですからね。雄吉を暴いて批判することは、まるで自分で自分を暴くような気がするの。もしも仮に私が思いきって、あるいはお前にそそのかされて、雄吉を暴いたとしたら、雄吉はどうなるでしょう。雄吉は死ぬほど恥ずかしい思いをするんじゃないか、雄吉は生きていけるだろうか、そう思うと雄吉がかわいそうで、あの子が我慢して、すましたポーズでいるほどかわいそうで、私にはとても…」 「ママ、分かるよ」 「ねえ、信次、パパと私はお前たちが結婚しても2人だけで暮らすつもりだけど、もしパパが先にお亡くなりになったとして私一人で暮らして行けなくなったら、私はくみ子の家か、そうでなかったらお前の家で世話になろうと考えてるのよ。その時お前は私を入れてくれますか?」 「ああ、いいよ。ママもあんまり幸せじゃないんだな」 「お前、ほろりとした気分に騙されちゃダメよ。私、いつお前にひどいことをするか分からないんだからね。油断してると、酷い目に遭うよ」 「僕、油断しないよ、ママ」
上映時間が長いだけに人物描写が細やかだ。石原裕次郎はアクション映画のイメージが強いのだが、こうした作品でもうまい俳優だったなと思う。貧しい暮らしを送ってきた実の母親と弟の描写にも胸に迫るものがある。北原三枝、芦川いずみも好演している。1958年度のキネマ旬報ベストテン11位。この年は1位「楢山節考」(木下恵介監督)、2位「隠し砦の三悪人」(黒澤明監督)、7位にはヴェネツィア国際映画祭金獅子賞の「無法松の一生」(稲垣浩監督、三船敏郎主演)と傑作が目白押しの年だった。
「陽のあたる坂道」のDVDを探していて、「石原裕次郎シアター DVDコレクション」というシリーズがあるのを知った。朝日新聞出版が2017年7月から刊行を始めたもので、全93冊となるDVD付きムック。「陽のあたる坂道」は第3号に収録されていたが、既に古本しかない。
2018/05/31(木)「友罪」
他人のスマホに保存されている動画をどうやって盗んだのか。終盤の大きな展開につながるこの部分があいまいなのがどうしても気になる。いや、映画の中では再生している場面を遠くから写真に撮ったと説明されるのだけれど、アホかと思う。接写で撮ってもうまく撮れるかどうか分からないのに、遠くから撮ってうまく撮れるはずがない。せめて別のスマホに動画ファイルを転送したというぐらいの説明が欲しいところだが、ファイルサイズの大きな動画の転送にはそれなりの手間と時間がかかるので、映画のあの状況では無理だ。
それよりも大きな問題は少年時代に連続殺人を犯した男の現在の姿にリアリティが感じられないことだ。1人を殺しただけなら過ちで説明がついても、2人以上を殺すことは過ちではない。金銭目的でも怨恨でもない快楽殺人を犯す人間はサイコパスの可能性が高いが、サイコパスが医療少年院でどのように更正できるのかできないのか、そのあたりが知りたくなってくる。
映画の作り自体は悪くない。“少年A”(神戸連続児童殺傷)の事件だけをモデルにしているのかと思ったら、登場人物のそれぞれに重たい過去がある。主人公の益田(生田斗真)は中学時代、親友がいじめに遭い、自殺した。週刊誌記者になったが、自分の記事がもとで悲劇が起きてしまう。益田は雑誌社を辞め、町工場に就職する。そこで鈴木(瑛太)という青年と出会い、徐々に親しくなっていく。益田の元恋人の杉本清美(山本美月)は17年前の連続児童殺害事件の犯人のその後を調べているが、行き詰まっている。相談を受けた益田はネットで見つけた事件の犯人の写真が鈴木によく似ていることに気づく。
タクシー運転手の山内(佐藤浩市)は過去の息子の行為の贖罪を今も続けている。この息子の行為のために家族は離散した。これが鈴木の父親かと思ったら、まったく違った。鈴木と知り合う藤沢美代子(夏帆)は過去にAV出演を強要した恋人から逃げている。医療少年院で鈴木を担当した白石弥生(富田靖子)は仕事に打ち込みすぎたため、娘と断絶している。
映画は序盤、こうした登場人物たちを並列的に描いていく。鈴木とほぼ接点のない山内を登場させたのは加害者家族と贖罪のテーマを打ち出すためだろう。パンフレットによると、瀬々敬久監督は原作者の薬丸岳に、映画を「ポール・ハギス監督の『クラッシュ』(04)のようなイメージにしたい」と語ったそうだ。序盤は、なるほど「クラッシュ」の構成によく似ている。映画でもミステリーでも部分を積み重ねて物語の全貌につなげていく手法は好ましいので、序盤を含めた全体の構成は悪くないと思った。
惜しいのは脚本に先に挙げたような傷が目に付くことだ。脚本も瀬々監督が担当しているが、もっと緻密に仕上げ、突っ込みどころをなくしていく必要があっただろう。サイコパスの犯罪を過失と同列に扱ったことが、説得力を欠く大きな要因になっている。
2016/12/04(日)「永い言い訳」
突然のバス転落事故で妻を亡くして泣く男と泣かない男。いや、泣けなかった男、それが主人公の衣笠幸夫(本木雅弘)だ。プロ野球広島カープの元選手・衣笠祥雄と同じ読みの名前を持つ主人公はそのために小さい頃から、からかわれてきた。津村啓というペンネームを持つ作家になったのは自分の名前を気に入っていなかったことが理由の一つだろう。
映画は泣けない男がさまざまな出来事を経て本当の涙を流すまでを描く。それだけなら、話は単純だが、その後にもう一つの場面がある。主人公に作家という職業を設定した以上、これはあって当然の場面だ。事故のテレビ番組に主人公が出演する場面も含めて本物と偽物、真実と嘘という前々作の「ディア・ドクター」から連なるテーマが深化して受け継がれている。
妻が事故に遭っている時に幸夫は愛人の福永智尋(黒木華)を自宅に招いていた。観客の共感を得にくい主人公と一筋縄ではいかないテーマを西川美和監督は描写の説得力でねじ伏せる。それが発揮されるのは泣く男、トラック運転手の大宮陽一(竹原ピストル)が登場してからだ。バス会社の事故説明会で陽一は「妻を返してくれよ」と直情型の叫びをあげる。幸夫とは対照的に妻の死に打ちのめされていて、事故直前に妻から携帯に入った留守電の録音を聞き返しながら、トラックの中でカップラーメンをすする姿が悲しい。
陽一には小学6年生の真平(藤田健心)と保育園児の灯(あかり=白鳥玉季)という2人の子どもがいる。母親を亡くし、仕事で不在がちな父親の家で、喧嘩しながらも助け合い、けなげに生きる子ども2人の姿を見るだけで観客は映画の味方になるだろう。普通の監督なら、こっちをメインに描いたはずで、それはそれで感動的な映画に仕上がったかもしれない。
幸夫の妻(深津絵里)と陽一の妻(堀内敬子)は親友で、一緒に旅行に行く途中、事故に遭った。陽一親子と食事を共にしたことから、幸夫は陽一の不在時に子どもの面倒を見ることを買って出る。「自分のようなつまらない、空っぽの男の遺伝子が受け継がれるなんて」と考えて幸夫は子どもを作らなかった。子どもたちと過ごすうちに、その考えが変わっていく。ただし、そんなに簡単に人の本質は変わらない。涙の後の場面はそれを示してもいる。
監督は主人公に「『物語を作る者』という私の自己像にも似たモチーフ」を込めたという。子どもが絡む場面は観客を大いに引きつけるが、幸夫自身の話に関しては必ずしも成功しているとは言えない。それでも映画は直木賞候補になった監督自身の原作よりもはるかに充実している。細部の描写が西川美和のこれまでの作品よりも一段と優れているのだ。パンフレットによれば、原作は映画のためのウォーミングアップだったそうだ。原作に心を動かされなかった人も映画には納得するだろう。
主演の本木雅弘はもちろん良いが、出番の少ない深津絵里と黒木華も好演している。黒木華がこんなに色っぽく撮られたのは初めてだ。西川美和の描写力は大したものだと思う。同時に残酷な人でもある。「バカな顔」「もう愛してない。ひとかけらも」などという毒のあるセリフは男の脚本家だったら、書かないのではないか。