2008/06/10(火)「僕の彼女はサイボーグ」
クァク・ジェヨン監督はSFマニアなのだそうだ。「ターミネーター」と「ドラえもん」(ということはつまり山崎貴「ジュブナイル」)の設定を借りたと思われる時間テーマSFをラブストーリーとして映画化したのがいかにもマニアらしい。綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーのフィギュアなども出て来たりして、ジェヨン監督、日本のアニメも好きなようだ。
映画はスーパーヒーローものによくある男女の役割を入れ換えているが、これは「猟奇的な彼女」などと同様、女に振り回される気の弱い主人公というパターンでもある。SF的なオリジナリティは皆無に等しく、パラドックスもあるにもかかわらず、これが憎めない作品に仕上がっているのはジェヨン監督の描写に大衆性があるためだ。昭和30年代を彷彿させる主人公の幼い頃の故郷の描写はどう考えても年齢的に合わないのだけれど、その描写自体に文句を付ける筋合いはまったくなく、たとえ「三丁目の夕日」ならぬ「三丁目の田舎」的な描写であっても微妙にノスタルジーをくすぐる部分があるのである。描写に狂いがないところを見ると、きっと韓国の田舎もこんな感じなのだろう。
惜しいのは終盤の説明がくどすぎることで、ここまで懇切丁寧に説明する必要があったのかどうか。監督は観客の物語に対する理解度を低く見積もりすぎているのではないかと思う。もっとコンパクトに簡潔に描く手法を取り入れれば、この映画、胸を張って傑作と呼べたかもしれない。綾瀬はるかと小出恵介(特に綾瀬はるか)の良さを引き出したことは十分に褒められて良い。
タイトルが出るまでに20分ほどかかる。タイトル前では20歳の誕生日にジロー(小出恵介)が謎の美人(綾瀬はるか)に会い、騒動を巻き起こし、別れるまでが描かれる。なぜ、こんなにタイトル前が長いのかは全体を見れば、一応納得できるし、クァク・ジェヨン監督の律儀さを感じるのだけれど、いくらなんでも長すぎる。彼女がなぜジローに接近したのか、なぜか好意を持ってくれているのかは分からない。だが、なんとなくジローは1年後の誕生日に再会できるのではないかと思う。そして予想通り、いつも誕生日を一人で祝うレストランに彼女は現れた。この前に彼女がまるで「ターミネーター」のように現代に現れるシーンが描かれるので、観客には彼女が未来から来たことは分かっている。レストランでは男(田口浩正)が突然、銃を乱射する。危ういところで彼女に助けられたジローは部屋に帰り、彼女は未来の自分が送ってきたロボットであることを知らされる(彼女は「ロボットと言わないで、サイボーグと言って」と言う)。未来のジローはレストランで撃たれ、重傷を負ってしまうのだ。それを防ぐために未来のジローは彼女を送ってきたのだった。火事での子供の焼死を防ぎ、車にはねられそうになった子供を助け、凶器を持って学校に乱入した男を捕まえる。彼女はスーパーマン的な活躍で次々に悲惨な事件を防いでいく。どれも未来のジローが心を痛めた事件だった。ジローはロボットであると分かっていても、彼女に次第に惹かれていく。
大地震で東京が壊滅するクライマックスのVFXはなかなかの出来。普通の男を演じる小出恵介もいいし、まばたきを抑えてロボットらしさを出した綾瀬はるかもいい。問題はやっぱり終盤の長すぎる説明で、ここは物語の中に少しずつ説明を入れていき、最後に残った一つの謎を明らかにするぐらいの構成の方が良かっただろう。その意味で脚本はつじつまを合わせただけで決してうまくはない。ここを見ていて「いま、会いにゆきます」を思い出したが、物語を別の視点で語り直すと言えるほどのものではなく、説明に終わった印象が拭いきれないのである。好感を持てるのはジェヨン監督のハッピーエンドへの強い希求。たとえ、ご都合主義と言われようが、こういう幸福なラストは見ていて気持ちが良いものだ。
2008/05/24(土)「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」
クラシカルな作り。1898年から1927年までを描く時代背景に合わせたようにタイトルも物語の語り口もクラシカルな作りである。クラシカルでないのは不安を強調するような音楽(というよりは劇伴といった方がふさわしい)だけだ。石油を掘り当てる山師の生涯をポール・トーマス・アンダーソンは緊密に活写し、主演のダニエル・デイ=ルイスはアカデミー主演男優賞を受賞した。一般的な評価は高いけれども、僕は途中から退屈だった。なぜか。主人公を突き動かす根源的なものが見えてこないからだ。主人公は石油で儲けた金を何に使おうとしているのか。どんな欲望があるのか。主人公が金を使う場面はなく、周囲に女もいない。欲望の根源を映画は深く掘り下げて描いてはいないのだ。「マグノリア」のような群像劇(監督の言葉を借りれば、アンサンブル映画)であれば、この点はあまり問題にならないが、1人の男の生涯に焦点を当てたこの映画の場合、主人公の振る舞いの基盤や規範を描かなければ、説得力が薄い。悲惨であったり、ショッキングであったりするさまざまなエピソードにいちいち納得しながらも、奥行きを感じないのはそのためだろう。デイ=ルイスの熱演と描写の強さによって騙されるけれども、アンダーソンが描いたのは1人の男の生涯のアンサンブルに終わっていて、その男の根底にある情念に迫っていかないのが見ていてもどかしい。なぜこの男はこんな振る舞いをするのかという疑問がつきまとう。画竜点睛を欠く力作だ。
冒頭から20分程度のセリフなしの場面は映画の技術をそのまま見せられているようで微笑ましささえ感じる。1898年、主人公のダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)は穴に降りる途中、はしごが壊れて転落し、足の骨を折る。それでも穴の底で金を見つけて300ドル余りを得る。金を手にしたダニエルは今度は石油掘削に乗り出す。西部の小さな町リトル・ボストンに石油があるとの情報を得て、息子のH.W.(ディロン・フレイジャー)とともに町へ向かい、サンデー牧場とその周辺の土地を買収。作物が育たない土地に豊かさをもたらそうと町の人たちをそそのかす。やがて石油は出るが、ガスの噴出で吹き飛ばされたH.W.は聴力を失ってしまう。サンデー牧場の次男イーライ(ポール・ダノ)は牧師でことごとく、ダニエルと対立。そんな中、ダニエルの異父弟を名乗る男ヘンリー(ケヴィン・J・オコナー)がやってくる。
後半、映画の中心になるのはダニエルとイーライの対立で、映画の結末もこの2人の関係に収束していく。イーライは牧師とはいってもどこかうさんくさいところがあり、精霊が体に入ったと言って教会に来た人々を騙しているような男である。石油掘削の前に町の人たちに自分を紹介するようダニエルに要求し、それがかなえられなかったことに恨みを抱いている。表面上は善良さを装うイーライをダニエルは嫌うが、この2人、コインの裏表のように似ている俗物といっていいだろう。ただし、デイ・ルイスの迫力の前では若いポール・ダノ、分が悪い。
H.W.はダニエルの本当の息子ではなく、最初は良好だったヘンリーとの関係もあることをきっかけに崩壊してしまう。H.W.とも決裂し、ダニエルは次第に孤独感を深めていく。「ゴッドファーザーPARTII」のマイケル(アル・パチーノ)をなんとなく思い出してしまったが、もちろんあの豊穣な映画には及ばない。
原作はアプトン・シンクレアの「石油!」(1927年)。アンダーソンはこの小説の前半部分、ダニエルとイーライの対立に中心を置いて映画を組み立てたという。ならば、やっぱりデイ=ルイスに対抗し得る役者をイーライ役にキャスティングしたかったところだ。不気味な音楽を担当したのはジョニー・グリーンウッド。
2008/05/19(月)「ノーカントリー」
発端は荒野の中で起こった出来事。ほぼ西部劇のように始まった物語は明確にクライマックスを省略して唐突にエピローグを迎える。クライマックスに起こったことは簡単に説明されるので分かるにしても、なぜその詳細を描かないのか。通常の映画なら力を入れて描く場面がないことで、映画は原題「No Country for Old Men」を強引に中心テーマに持ってきた印象がある。退職間もない保安官(トミー・リー・ジョーンズ)の妻への一人語りは老人が住む国ではなくなったアメリカを象徴している。これは「殺し屋シガー」というタイトルの映画ではないんだよ、と主張しているかのようだ。
しかし、映画で印象に残るのは、ほれぼれするような映像のスタイリッシュさと描写の力強さ、ハビエル・バルデム演じる殺し屋の不条理で強烈なキャラクターの方である。この映画の在り方はジョエル&イーサン・コーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」にまっすぐにつながっており、結論をどう強引に決めようが、その魅力はいささかも揺るぐことはない。物語よりも映像で語るのはコーエン兄弟映画の常だが、今回はそれが非常にうまくいった。クライマックスの省略には疑問も感じるのだけれど、映像に力があれば、構成に多少の難があっても、逆にそれが意味のあることのように思えてくるものなのである。アカデミー助演男優賞を受賞したバルデムは、ほとんど主演と言ってもよいぐらいの存在感があり、バルデムでなければ、この映画は成立しなかったのではないかと思える。
1980年代、テキサスの荒野で麻薬取引の200万ドルを拾った男ルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)が、組織の放った殺し屋アントン・シガー(ハビエル・バルデム)から追われることになる。それをエド・トム・ベル保安官(トミー・リー・ジョーンズ)が追う。映画はこの簡単な設定の下、追う者と追われる者の戦いをじっくりとサスペンスフルに描いていく。シガーは登場直後から殺人を重ねる。自分を捕まえた若い保安官を殺し、車を奪うために農夫を殺す。高圧ボンベ付きのエアガンで家畜を殺すように容赦なく人間を殺していく。立ち寄った店で店主にコインが表か裏か言えと迫る場面の異様な迫力。撃たれても、うめき声さえ上げずに傷口を縫い、腕から骨折した骨が出てきても慌てない人間離れしたキャラクター。モスもベトナム帰還兵という役柄だが、ターミネーターのようなシガーにかなうわけがない。ハビエル・バルデムは「海を飛ぶ夢」の時にも演技力に感心させられたが、今回も凄い。きっとデ・ニーロのように演技の虫なのだろう。
原作はコーマック・マッカーシーの「血と暴力の国」。コーエン兄弟が原作ものを映画化するのはこれが初めてという。クライマックスがない映画と言えば、僕は黒沢明「影武者」を真っ先に思い浮かべてしまうのだけれど、「影武者」に感じた大きな不満はこの映画には感じなかった。それはこの映画のクライマックスがそれまでの殺し屋シガーの振る舞いと大きく違うはずはないことが分かりきっているからだろう。アカデミー賞では他に作品、監督、脚色賞を受賞した。
2008/04/21(月)「ディセント」
地底人が出てくるまでは閉所恐怖症的な怖さがあったが、後半に出てくるあの地底人はねえ。あんなにたくさん繁殖しているのは何らかの生態系の説明がないと説得力を欠く。ま、この映画で怖いのはそうした怪異よりも人間だったりするのだが。
サラ(シャウナ・マクドナルド)は愛する夫ポール(オリバー・ミルバーン)と一人娘ジェシー(モリー・カイル)との平和な家庭を守る平凡な主婦だった。年に一度必ず出かけることにしている女ともだちとの川下りからの帰り道、ハンドルを握りながら何か浮かない顔をしている夫に話しかけた。ポールが前方から目をそらし、助手席のサラに顔を向けた瞬間、対向車と衝突。サラが病院で意識を取り戻したとき、ポールとジェシーはすでにこの世にはいなかった。それから1年後、サラは女友だち5人と洞窟探検に行く。ところが、洞窟が崩落。6人は出口を求めて洞窟内をさまよう羽目になる。洞窟の中には何かがいた。
最初の川下りと交通事故がクライマックスに結びついてくる。徐々に明らかになる人間関係。極限状態の中でエゴと憎しみと誤解が入り交じり、悲惨な展開となる。映画の作りはB級ホラーではなく、脚本もしっかりしている。ホラーとサスペンスとアクションと人間ドラマが描かれ、出来としてはまずまずか。これで地底人にもう少し工夫があったら言うことはなかった。地底人の「ギギギギギギ」という声は「呪怨」の影響ではないか。
監督は「ドッグ・ソルジャー」(ニック・ノルティ主演ではない方)のニール・マーシャル。7月に日本で「ドゥームズデイ」(原題)が公開予定だ。ただ、IMDBではあまり評判が良くない。予告編は以下。
Descentは下降、急襲などの意味がある。僕は高所は怖くないが、閉所は怖い。だから洞窟探検なんか絶対にしない。そうでなくても体がやっと通れるぐらいの所を通るのは嫌ですね。
2008/04/18(金)「クローバーフィールド HAKAISHA」
怪獣の造型がいいですね。あれは間違いなくエヴァ系のデザイン。壊れた人間とトカゲが合体したような形で、自然界の生物とはとても思えず、劇中でも言及されるが、アメリカ政府の実験施設から逃げ出したのに違いない(ただし、実験施設がニューヨークの近くにあるはずはなく、怪獣が攻撃する都市をフロリダとかサンフランシスコ、あるいは五大湖沿岸地域あたりにしておけば、良かったのではないかと思う)。おまけの小さな怪物の方は「ガメラ2 レギオン襲来」のソルジャーレギオンを思わせる(それよりはずっと小さいけれど)。
日本の怪獣映画が怪獣を倒すことに傾注しているのに比べて、アメリカ映画の怪獣はディザスター映画(パニック映画)的側面が強調される。この映画もそのパターン。元々のヒントは「ゴジラ」のフィギュアにあったそうだが、米国版「ゴジラ」(ローランド・エメリッヒ監督)と同じアングルがあったりして、製作のJ・J・エイブラムス、怪獣映画が好きなのではないかと思う。小さい怪獣が出てくるあたりは米国版「ゴジラ」や「エイリアン」の影響だろう。米国版「ゴジラ」の小さいゴジラは明らかに「ジュラシック・パーク」のヴェロキラプトルの影響がありましたけどね。ついでに言えば、噛まれた人を軍隊が隔離するのは「グエムル 漢江の怪物」でしょう。
登場人物が撮影したビデオ映像で語るという同じ手法を用いた「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」も実は嫌いではないのだが、怪異の正体がまったくといってよいほど出てこないのが大きな不満だった。この映画では怪獣の姿をそこそこ見せてくれるけれども、まだまだ見せ方が足りない。きっちり見せて、その正体まで明らかにすれば、言うことはなかった。そのあたりは続編に持ち越されるのだろう。限定的な視点で描いた怪獣映画として良い出来だと思う。
僕は複数の人が撮ったいくつかのビデオ映像をつないだ構成とばかり思っていたが、撮影したビデオカメラ自体は1台だけだった。ああいうパニック状況の中でビデオを撮り続けるというのはちょっとリアリティを欠くのだけれど、まあしょうがないか。
それにしても揺れに揺れるこの画面、三半規管の弱い人には勧められない。うちの家内などは絶対に無理。