2003/05/26(月)「めぐりあう時間たち」
純文学の趣。ただし、感心したのは純文学的な趣向ではなく、終盤の驚嘆すべき展開にある。1924年のバージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)と1951年のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)、2001年のクラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)の3人の女性の1日を描くこの映画、終盤のミステリー的な趣向で一挙に3つの時代が交錯してくる。そうか、○○は●●の××だったのか、ということが分かったその後の展開にいたく感心した。ムーアとストリープの演技(特にストリープ)がこの場面を支えている。主演女優賞を取ったのは付け鼻で本人の面影がないキッドマンだったが、ストリープでもムーアでも良かったかもしれない。
「リトル・ダンサー」に続いて監督2作目のスティーブン・ダルドリーの演出は知的で緊密な作業の積み重ねであり、デヴィッド・ヘアの脚本も見事。なぜこれが脚色賞を取らなかったのだろう。
原作はピュリッツアー賞とペン/フォークナー賞を受賞したマイケル・カニンガムの小説。デヴィッド・ヘアは早い段階でナレーションに頼らない脚色を決めたという。だから、原作のこんなセリフもクラリッサの口から語られることになる。
まだまだ幸せの序の口だと思っていた。でも、あれから30年以上の時が流れ、クラリッサはときに愕然とすることがある。あれが幸せだったのだ。…今ならわかる。あれこそまさに至福の時だった。あのとき以外に幸せはなかった。
3人の女はそれぞれに苦悩を抱えている。バージニアは精神を病み、ローラは日常に倦み、クラリッサはかつて恋人だったエイズの友人(エド・ハリス)に心を砕く。それぞれのエピソードが描かれる前半は、3人の演技と素晴らしい撮影とフィリップ・グラスのどこか「めまい」を思わせる音楽をもってしてもまあ、あまり心には響いてこない。他人の苦悩なんか知ったことか、という感じである。3つの時代のエピソードが絡まり合っていく過程で映画は輝き出す(1枚の写真でクラリッサとローラのつながりを見せるのがうまい)。と同時に前半の描写がじわりと効いてくる。
いつも眉を寄せ、病んだ感じを漂わせるキッドマンの演技に作りすぎの感じは否めない。それに比べてストリープの自然な演技はさすがだと思う。ムーアの中流家庭の満たされない主婦役もよかった。
2003/05/26(月)「アバウト・シュミット」
保険会社を定年退職したウォーレン・シュミット(ジャック・ニコルソン)の話。ニコルソンはこれでアカデミー主演男優賞にノミネートされた。シュミットが退職後に会社に行っても相手にされず、家ですることもなくボーっとしていたり、42年連れ添った妻を内心では苦々しく思っている(「なぜ、こんな婆さんが自分の家にいるのだろう」とシュミットは思う)とかの序盤の描写はまあ、よくあるパターンでそれほど新鮮ではない。ある日、テレビを見ていたシュミットは「チャイルドリーチ」というプログラムに関心を持つ。発展途上国の恵まれない子どもに毎月22ドルを寄付する事業。子どもの養父として認められ、金と同時に手紙も送ることになる。その手紙が映画ではナレーション代わりとなっている。
退職後しばらくして妻は掃除中に脳血栓で死ぬ。結婚を控えた娘(「アトランティスのこころ」の母親を演じたホープ・デイビス)が葬儀のために帰ってくるが、シュミットの世話をすることもなくさっさと帰ってしまう。シュミットは婚約者(ウォーターベッドのセールスマンでネズミ講まがいの投資話をシュミットにもちかける)が嫌いで、なんとか結婚を中止させようとするが、かえって娘の反発を買ってしまう。妻が買ったキャンピング・カーで思い出の地を訪ねたり、娘の婚約者の家庭で騒動が持ち上がったりと、小さなエピソードがユーモラスに綴られていく。
初老の男性が主人公の映画というと、「ハリーとトント」などを思い出すのだが、こういう作品でも商売になるのがアメリカ映画の幅の広さと言える。かつてこういうジャンルは日本映画でもあったが、今やすっかりなくなってしまった。客が呼べないのだろう。
「チャイルドリーチ」は「フォスター・プラン協会」という実在の組織(日本にも
LINK http://www.plan-japan.org/ 支部
がある)。映画はこれのPRっぽくなっているのが難だが、全体として良くできた大衆小説のような味わいがある。シュミットという男は独善的で、そばにはいてほしくないキャラクター。ニコルソンはこの嫌なキャラクターをユーモラスに演じている。かつてならウォルター・マッソーあたりが得意としていた役柄か。マッソーやジャック・レモンなら、ペーソスも感じさせただろうが、ニコルソンの凄みのある顔つきはペーソスとは無縁のように思う。
2003/05/24(土)「マトリックス リローデッド」
あの素晴らしすぎる予告編を見たら、先々行公開に駆けつけずにはいられない。しかし、見終わった映画の印象は予告編にすっかり負けていた。アクションの撮り方、見せ方は大変良いのに物語の語り方がまったく駄目である。最初に延々とあるザイオンの描写はまだるっこしくて仕方なく、まるでかつての東宝怪獣映画や「マッドマックス」を思わせるような南洋の原住民みたいなありきたりの人類の描き方には失望せざるを得ない。新たなビジョンのかけらもありゃしない。その後の本筋の話も分かりにくく、面白い話を思いついたのに話を構築していく際に失敗したなという感じがありあり。時間が足りなかったのだろうか。これは単にネオ(キアヌ・リーブス)とトリニティー(キャリー=アン・モス)の愛を中心に据えて、なんだかよく分からないマトリックスの話を(分からなくてもなってもいいから)ばっさり省略して簡単にまとめてしまえば何とかなったのではないか。アクションを生かす話に再編集してはどうか。
一番の問題はエモーションに欠けていることにある。ネオが見る夢の中でトリニティーの死が冒頭に描かれる。これは当然、クライマックスにリピートされるのだが、それだけのことで、物語と有機的につながっていかない。マトリックスの秘密をこれにどう組み合わせるかが、脚本の腕の見せ所なのに、どうもうまくない。トリニティーの運命を暗示するようなエピソードが中盤にほしいところだった。最初の10分とラストの30分だけで十分なのである。
人類を支配するA.Iが地下深くにある都市ザイオンを攻めてくると知ったモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)やネオたちが、マトリックスの世界に入り、それを阻止しようとするのが基本プロット(「ドリームキャッチャー」に併映された「アニマトリックス」の「ファイナル・フライト・オブ・オシリス」に絡むセリフがある)。これに前作ではエージェント・スミス、今回はエージェントではなくなったスミス(ヒューゴ・ウィービング)とネオの確執が絡む。スミスはネオへの復讐心に燃え、システムに叛逆して存在し、無数に自己増殖をさせる技術を身につけている。今回はつまり、ネオに対してA.Iとスミスがそれぞれに攻撃を仕掛けてくるのである。話の構図としては悪くないのだが、どうもすっきりしない。スミスに時間を割きすぎたのも一因なのではないかと思う。スミスのキャラクターが前作と変わっているのは完結編への伏線だろうが、基本的にネオの行動を邪魔するだけの役柄なので、前作同様、A.Iの手先にしか見えてこない。
アクションシーンは中盤にある多数のスミスとネオの戦いと、クライマックスの高速道路でのツインズとの戦いがCGを駆使して良くできている。良くできてはいるが、エモーションに欠けるので、単なる見せ物である。前作では新鮮だったカンフー・アクションが今となってはハリウッドでも普通になってしまったのもデメリットだろう。
ラスト近く、現実世界のネオに新たな変化が訪れる。完結編ではこれをどう活用するのか。今回のようなことがないようにしてほしいものだ。
2003/05/19(月)「ボウリング・フォー・コロンバイン」
コロンバイン高校で起こった銃乱射事件の原因を探るドキュメンタリー。アカデミー賞授賞式でマイケル・ムーアが「われわれは偽の選挙で偽の大統領を持ってしまった。恥を知れ、ブッシュ」と言った意味がよく分かる映画である。
ムーアはアメリカで年間1万人以上が射殺される事件が起きるのは弱者や貧困者を助けないアメリカの体制が悪いと言っているのである。見る前はガン・コントロール(銃規制)の必要性を訴える映画かと思っていたが、そうではなかった。ムーアの視点はもっと深いところを見ている。ベトナムやチリやアフガンやイランでアメリカがこれまで起こしてきた世界の警察としての“正義の戦い”が国民にどんな影響を与えたのか、ムーアは鋭く追求していく。それはインディアン虐殺の時代まで遡る要因なのである。もう、面白くて面白くて仕方がない。
銃による犯罪が多いのは銃が簡単に手に入るからだ。普通ならそう思う。ムーアはこれを認めた上で、しかしそれ以上に大きな要因を見せていく。銃があるから事件が多いのか、いや、カナダでは銃が700万丁もあっても、射殺事件は年間数十件しか起きない。人種が混合しているからか。アメリカ人の残虐性か。貧困者が多いからか。ロック(マリリン・マンソン)の影響か。そうした事々をムーアは一つ一つそうではないと例証していく。ユーモアたっぷりの突撃取材で。
ムーアの姿勢は一見、軟派のようでいて実に硬派である。しかも戦略家でもあり、乱射事件の被害者2人(Kマートで売られた銃弾がまだ体の中にあり、1人は脊椎を損傷して車いすだ)と銃弾を売るKマート本社に押しかけ、相手にされないと分かると、翌日、マスコミを連れて再訪問し、そこでKマートから銃弾の販売を止めるとの宣言を引き出してしまう。知性と勇気と行動力。太った外見からは想像できないジャーナリズム精神が、いやそれよりもこんな国にしてしまった政治家や支配階級への強い怒りがムーアには渦巻いている。
ムーアはパンフレットのインタビューでこう答えている。
コロンバイン高校の事件の直後に作品を作ろうと決めた。最初は、銃を減らせば殺人も減るといった内容の、いってみればリベラルな内容のものになると思っていたんだ。だが、作っているうちに銃そのものは真の問題じゃないことに気がついた。問題はアメリカン・メンタリティ、アメリカの精神構造なんだ。アメリカはなぜ、譲り合ったり話し合ったりして問題を解決することができずに、暴力で事を決してしまうのか。恐怖が原因だ。権力を持つ人間たちが抱える恐怖。そして我々が他人に対して感じる恐怖。《外部》に対して恐怖を抱くよう仕向けられていること。恐怖とそのために起こる暴力は、いまやアメリカの文化の一つになってしまった。
この言葉は映画の結論そのものである。取材の過程で当初立てた構想が変わっていくのはよくあることで、長編ドキュメンタリー作家としてムーアが優れているのは目に見えることをそのまま受け入れて、映画の方針を変更したことだ。Kマートの場面は弱者には高飛車な態度に出るKマートがマスコミ(権力)にはからきし弱い卑しい実態を浮き彫りにするとともに感動的な場面でもある。それは行動力がもたらした変革だからだ。
ムーアは最後に全米ライフル協会の会長であるチャールトン・ヘストンを訪ねる。この映画で異論があるとすれば、それはこの場面で、耄碌しきったヘストンを責めてもしょうがないのである。本当に改革すべきはアメリカの体制そのものなのだ(ヘストンはその傀儡みたいなものだろう)。だから、アカデミー賞授賞式でのムーアのスピーチは映画を補完するものだったのだろう。
アカデミー授賞式でのスピーチをBookReview特別号より引用しておく。
俺たちはノンフィクションが好きなのに、この世は虚構だらけだ。今のご時世、インチキな選挙で選ばれた偽物の大統領が、嘘の理由で俺たちを戦争へ駆り立てている。テロに備えてダクトテープを用意しろだ? テロはオレンジゾーン? そんな嘘に乗せられるもんか。俺たちゃこんな戦争には反対だよ、ブッシュさん。恥を知りな、ブッシュさん、恥を知れってんだ。あんたの時代はもう終わりってことさ。ご苦労さん!
2003/05/16(金)「愛しのローズマリー」
ボビー&ピーター・ファレリー兄弟の監督作品。人を見かけだけで判断していたハル(ジャック・ブラック)が暗示をかけられて、心の美しさで女を見るようになる。ハルの前に現れる凄い美人がグウィネス・パルトロウ演じるローズマリー。実際は凄く太っていたが、ハルの目にはスタイル抜群の最高の女に見える。ローズマリーはハルが勤める会社の社長の娘で、ハルは仕事でも出世する。しかし、ハルを心配した親友が暗示を解いてしまい、というストーリー。「シュレック」同様、“政治的に正しい”話で、美しくない人や障害者を画面に出すのは難しいところなのだが、まあ成功していると思う。前半はギャグが満載されていて笑ったけれど、一歩間違うと差別的と言われるところなのである。
後半はまともな話になって、それなりに共感させられる。ただ、パルトロウがあまりに良すぎるので、やはり太った人よりパルトロウがいいや、と思えてしまう。暗示を解かれた主人公が太ったローズマリーを愛するようになることにもう少し説得力を持たせると良かったと思う。