2005/12/12(月)「SAYURI」
アーサー・ゴールデンの原作を「シカゴ」(2002年)のロブ・マーシャル監督が映画化。当初、監督候補に挙がっていたスピルバーグは製作に回った。序盤の日本家屋の光と影を丁寧に捉えて構成した映像を見た時には、これは傑作なのではないかと思った。最近の日本映画の、のっぺりした映像とは異なって映像に厚みがあり、豊かな情感を備えている。日本を舞台にした映画だけに、なおさら日本映画より優れた部分が目立つのだ。
しかし後半、映画は急速に失速していく。ドラマがありきたりで訴求力に欠ける。芸者同士の確執が権力争いと同じように描かれては面白くなるわけがない。こういう話、もう少し陰湿で日本的な感じが欲しいし、女の性にも踏み込んでいって欲しいものである。日本を舞台にしていながらセリフのほとんどが英語という作りに僕はそれほど違和感はなかった。基本設定が激しく間違いで、サムライをアメリカ先住民のように描いたにもかかわらず、ドラマの説得力で納得させたエドワード・ズウィック「ラスト・サムライ」(2003年)を見れば分かるように、そういう部分を超えて技術で無理矢理成立させてしまうのがハリウッド映画なのである。主演格の3人がすべて中国系女優なのは日本人としては面白くないが、英語のセリフに堪能な女優が日本にはいなかったのだろうから仕方がない。ただし、この映画の失敗はやはり日本文化への理解が足りなかったことが一因なのだろう。加えてマーシャル自身の資質にもあると思う。「シカゴ」の時にも思ったが、ロブ・マーシャル、基本的に人間のネガティブな部分の描き方が下手なのである。陰影豊かな映像の厚みに比べて人間の陰影は薄く、陰湿な世界を描きながらも、映画は意外にカラリとしている。歌と踊りの演出が得意なマーシャル、人間を深く捉えるようにならないと、今以上のものは作れないだろう。良くも悪くもハリウッドの大作らしい味の薄い映画だと思う。
戦前から戦後にかけての物語である。貧しい漁村に生まれた千代(大後寿々花)は姉と一緒に身売りすることになる。母親譲りの青い目をした千代はおかあさん(桃井かおり)が仕切る置屋で下働きをすることになるが、姉は女郎屋に売られていく。売れっ子芸者の初桃(コン・リー)は千代を目の敵のようにしていじめる。千代は姉と一緒に逃げようとするが、けがをして逆に借金を膨らませ、芸者の道は閉ざされる。このあたりの「おしん」を思わせるひたすらかわいそうな描写には大衆性があり、大後寿々花の可憐な好演もあって見せる。この調子で行くと、映画はまずまずのものになったのかもしれない。悲しみに暮れる千代はある日、橋の上で親切な“会長さん”(渡辺謙)に出会う。会長さんは優しく、千代にかき氷を食べさせてくれた。千代は会長さんに再会するために芸者の道を目指そうと決意する。ここで千代役がチャン・ツィイーにバトンタッチ。僕はツィイーのファンだが、大後寿々花の後では少し分が悪い。役柄の15歳に見えないこともマイナスだろう。ある日、芸者の豆葉(ミシェル・ヨー)が千代を芸者として育てたいと申し出る。いったんは閉ざされた道が開け、千代はさゆりという名前を与えられて、芸者の道に励むことになる。
芸者になったさゆりが会長にすぐに再会するのは興ざめだが、そこからラブストーリーとして構成していけば、まだ面白くなったのかもしれない。だが、映画が力を入れているのは初桃とさゆりの確執で、コン・リーのいかにも憎々しい演技は悪くないのだけれど、どうも狭い世界のどうでもいいような話だなと思えてきてしまう。置屋の跡を継ぐのがさゆりか、コン・リーの妹分のおカボ(工藤夕貴=英語でパンプキンと呼ばれているからカボチャのおカボ。あまりと言えば、あまりの名前だ)かというのが重大に語られるが、置屋がそれほど重要なものには思えないのである。このあたりは芸者の世界を詳細に描いた(つもりの)原作の問題なのかもしれない。マーシャルの演出も前半に比べると、優れた部分は見あたらなくなる。というより、映像美だけでは2時間以上持たせるのは難しいのだ。
日本側の俳優では強突張りの桃井かおりが出色で、初めてのハリウッド映画なのにこんな役柄を堂々と演じているところに逆に感心する。しかし、こういう役では2作目の声はかかりにくいかもしれない。役所広司と渡辺謙はいつもの演技でいつものように悪くない。
2005/12/07(水)「ビヨンド The シー 夢見るように歌えば」
歌手のボビー・ダーリンの生涯を描いたケヴィン・スペイシー監督作品。前半、愛するサンドラ・ディーに対して「ビヨンド・ザ・シー」を歌う場面やボビーがスターダムに上がっていく段階のハッピーさも、後半、アイデンティティーの危機に見舞われて挫折する場面の暗さも50年代から60年代の音楽映画をお手本にしたかのよう。もちろん、ボビー・ダーリン自身がその時代に生きたスターだからということもあるが、この映画の作り、「Ray レイ」などよりはよほど好きである。
ケヴィン・スペイシーの歌のうまさには驚く(ダンスはうまくない)。元々口跡の良い役者だと思っていたが、歌声がいいし、歌手としてもやっていけるのではと思えるほど。18曲を収録したというサントラ盤が欲しくなった。映画が好ましいのは監督・製作・主演を務めたスペイシーのボビー・ダーリンへの尊敬の念がにじみ出ているからだろう。暗い場面も絶望的なほどに暗くはならず、音楽を生き甲斐として37歳の若さで死んだボビーを肯定的に描いている。ボブ・ホスキンス、ジョン・グッドマンなど脇の役者たちもいい。
サンドラ・ディー役のケイト・ボスワースは来年の「スーパーマン・リターンズ」でロイス・レーン役を演じるとのこと。驚いたのはグレタ・スカッキがそのお母さん役で出ていて、見る影もないほど変わっていたこと(いや、よく見れば少しは面影は残ってるんだが)。「推定無罪」のころの輝く美貌はどこに行ったのでしょう。女優のこういう変貌には何度も出くわしているけれど、女優が美しくいられる時間は短いのだなあとつくづく思う。
この映画、アメリカ映画かと思ったら、イギリスとドイツの合作映画だった。それにしてもカタカナと英語をまぜたこの邦題は何とかならなかったのか。センスがまったくないな。
ついでに書いておけば、「スーパーマン・リターンズ」の監督は「X-メン」のブライアン・シンガーで、レックス・ルーサー役でケヴィン・スペイシーが出演する。スーパーマン役はブランドン・ラウス(Brandon Routh)。
2005/12/06(火)「Mr. & Mrs. スミス」
危険な職業を持ち、敵対する組織にいる男女の結婚と言えば、「スパイキッズ」の両親もそうだったが、こちらは凄腕の殺し屋であることをお互いに隠して結婚した夫婦の話。結婚して5、6年目、やや熱が冷めた段階でお互いの秘密が分かり、所属する組織からそれぞれ48時間以内に相手を殺すよう命じられる。ブラッド・ピット、アンジェリーナ・ジョリーの魅力で見せる映画で、その点に関しては十分満足したが、話は簡単なものだし、アクション場面にもオリジナリティが乏しい。カーチェイス場面などは「アイランド」「マトリックス リローデッド」には到底及ばない。ユーモアが絡むとアクション場面は単なる見せ物に落ちてしまうものだが、この映画も例外ではなかった。以前よくあった破壊に次ぐ破壊で笑いを取るB級コメディを思い出してしまった。監督は「ボーン・アイデンティティー」のダグ・リーマン。この人は大がかりなアクションよりも格闘場面などの方が得意なのではないか。リーマンが「ボーン・スプレマシー」の監督をポール・グリーングラスに譲ったのはこの作品に入っていたためという。こっちよりも「スプレマシー」を監督した方が良かったと思う。
ジョンとジェーンのスミス夫妻はコロンビアで知り合い、お互いに殺し屋であることを秘密にしたまま結婚した。それから5、6年(結婚カウンセラーに対してピットが5年と言うと、ジョリーが6年と訂正する)、同じ標的を狙ったことから秘密が明らかになってしまう。元々、2人が所属する組織はライバル関係にあり、それぞれの組織は相手を48時間以内に抹殺するよう命令する。そして2人は壮絶な戦いに突入することになる。
プロットとしてはこれだけのものである。脚本を書いたサイモン・キンバーグ(なんと上に書いた「X-MEN3」の脚本にも参加している。大丈夫か)はアクションを柱に物語を組み立てていったというが、組み立てるほどの話ではない。キンバーグは「トリプルX」の続編「トリプルX ネクスト・レベル」(2005年、リー・タマホリ監督、未公開)で脚本家デビューしてこれが2作目。この脚本、元々はコロンビア大学修士課程で書いたものという。習作レベルの脚本で、細部に工夫がないのはそのためのようだ。プロダクションノートを読むと、キンバーグはこう語っている。「ミュージカルでは、登場人物の愛情や葛藤、興奮が高まると、通常の台詞での表現を超えて、その高まりが歌と合わさることで感情が爆発する。ジョンとジェーンの場合は、銃撃で感情が爆発し、そのことでふたりの関係性が明らかになっていくんだ」。ミュージカルの部分に関してはまったく正しい。それをアクション映画に置き換える際にうまくいかなかったようだ。頭で分かっていても実力が伴わずに失敗することはよくある。
リーマンの演出も標準的なもので、アクション映画として特に新しい部分はない。それでもそこそこに楽しめるのはアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットのお陰だろう。特にアンジェリーナ・ジョリーの色っぽさが良い。ジョリーは自分の魅力がどういう部分にあるのかをよく知っているのだと思う。
2005/12/05(月)「春夏秋冬そして春」
これは傑作だと思う。「サマリア」では興ざめだった比喩の分かりやすさがこの宗教的と言うより寓話的世界ではプラスに働いている。そしてこれは素直に「悪い男」の延長線上にある世界なのだと思う。この作品から変わったと言われるキム・ギドクの作風は根底の部分では少しも変わっていない。激しさが内に沈んだだけなのだ。
山奥の湖に浮かぶ寺が舞台。タイトルの「春夏秋冬そして春」とは映画を見始めてすぐに人生の比喩だろうと想像できる。幼年期、青年期、壮年期、老年期を描くのではと思ったのだが、それほどすんなり行くほどキム・ギドクの映画は単純じゃなかった。「春」と「夏」は確かにそうなのだけれど、「秋」の章で大きく転換し、静謐な「冬」の章へ向かう。冬の章を演じるのはキム・ギドク自身で、壮健な肉体が寺を再建する男に実にぴったりである。秋の章で描かれた和尚の力を受け継ぐのに説得力がある(実は和尚が船もないのに対岸へなぜ渡れるのかと疑問に思っていたら、ちゃんと秋の章の最後で明らかにされる。そのあたりにも感心した)。
人間の業とか人生の苦闘とかを分かりやすい比喩で描いた作品。石を結びつけられて「春」の章で死んだはずの魚や蛇が「そして春」の章で生きた姿を見せるのは輪廻転生とか繰り返しなどを思わせる描写だ。映画にはそれほど思想的な深みがあるわけではないのだが、自然と一体となった人間の営みを見つめるキム・ギドクの視線は穏やかさよりも激しさが息づく。目、口、鼻、耳を覆う「閉」と書いた紙や顔を布で覆った女などのショットは異様で鮮烈。昨年のキネ旬ベストテン9位。
2005/12/04(日)「炎のメモリアル」
消防士を主人公にした映画は「バックドラフト」(1991年)が記憶に残るが、「バックドラフト」はサスペンスの要素が強かった。この映画、真正面から消防士の仕事を取り上げて、消防士の危険な業務を描いている。地味になりそうな題材を手堅く作ってあるのに感心した。ルイス・コリック(「遠い空の向こうに」「ドメスティック・フィアー」)の脚本がうまいのだろう。ただ、ラストに異論はある。ああいうラストにすると、観客の中には泣いて満足する人もいるかもしれないが、僕は逆の方が良かったと思う。
主演はホアキン・フェニックス。上司をジョン・トラボルタが演じている。監督はジェイ・ラッセル。