2004/10/11(月)「殺人の追憶」
1986年から1991年にかけて韓国の農村で起きた猟奇的な連続殺人事件を描いたミステリー。今年4月に出張先で見ようと思って見られなかった。評判の高さは聞いていたが、これは凄い傑作だと思う。10人の若い女性が殺されたにもかかわらず、未解決のままになっている事件で、それはとりもなおさず当時の警察の無能さを象徴しているわけでもあるが(なにせDNA鑑定さえアメリカに頼まなければならなかったのだ)、これは警察批判などの社会派の視点に立った作品ではまったくない。いや、冤罪を生む田舎警察の捜査のデタラメぶりなど批判も込められてはいるけれど、それ以上に監督のポン・ジュノが目指したのはエンタテインメントとしての完成度だったのだと思う。そして突き詰めたエンタテインメントは芸術の域にまで高まるものなのである。
主演のソン・ガンホ、キム・サンギョンら刑事たちの人間臭くてユーモラスな描写と、後半グイグイ高まっていく強烈なサスペンスが一体となって迫ってくる。懸命な捜査にもかかわらず、連続する殺人を防げず、クライマックスには知り合いの少女まで犠牲にしてしまう刑事たち。その無念さと無力感は観客にもひしひしと伝わる。韓国人なら民主化が始まったころの時代風俗の描写にもグッと来るものがあるのではないか。細部にまで心を配ったドラマ作りであり、その見事さには感心せざるを得ない。
予告編とチラシに阪本順治が黒沢明を引き合いに出した賛辞を寄せているけれど、その通りで「野良犬」や「天国と地獄」に匹敵する描写がこの映画にはある。ここぞという場面で鳴り響かせる岩代太郎の音楽も素晴らしい。
2004/10/09(土)「デビルマン」
ブライアン・デ・パルマ「ミッドナイトクロス」の冒頭で、シャワー室で襲われる女の叫び声を録音していた録音技師のジョン・トラボルタが、女優のあまりの下手さ加減に匙を投げるシーンがある。「デビルマン」を見ていてそれを思い出した。中盤、主人公の不動明(伊崎央登)がデーモンであることを養父の牧村(宇崎竜童)に知られて上げる叫び声がなんとも迫力のないものなのである。終盤にもう一度、叫び声を上げるシーンがあるが、そこも同じ。これほど真に迫らない叫び声は初めて聞いた。この程度の叫び声でなぜ那須博之監督がOKを出したのか理解に苦しむ。感覚が狂っているのか、現場をコントロールできなかったのか、時間が足りなかったのか。いろいろあるだろうが、こういうところでOKする姿勢が映画全体に波及してしまっている。主人公だけでなく、他の出演者の演技にもまるでリアリティがない。6月公開予定を延期してCGをやり直したそうだが、出演者の演技も最初からやり直した方が良かった。いや、その前に脚本を作る段階からやり直した方が良かっただろう。永井豪の最高傑作とも言えるあの原作がなぜ、こんなレベルの映画になってしまうのか。「スクール・ウォーズ HERO」とは違って、「デビルマン」の物語を本当に理解しているスタッフはいなかったのではないか。
「外道! きさまらこそ悪魔だ」と、原作の不動明は叫ぶ。悪魔特捜隊本部で悪魔に仕立てられて惨殺された牧村夫妻を発見し、そばにいた人間たちに怒りの声を上げるのだ。「おれのからだは悪魔になった…。だが、人間の心は失わなかった! きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ。これが! これが! おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!」。
映画にも「悪魔はお前ら人間だ!」というセリフはあるが、それを叫ぶのは不動明ではない。デーモンに合体された少女ミーコ(渋谷飛鳥)である。なぜ、こういう改変を行うのか。主人公にこのセリフを叫ばせなければ、その後の展開がおかしくなってしまう。原作の不動明は愛する美樹を殺した人間たちを一掃し、同時に怒りの矛先を人間たちの心理を利用して自滅させようとした飛鳥了に向ける。映画の明は人間は殺さず、了との対決に臨む。これでは愛する者たちを殺された主人公の怒りが伝わってこない。だからドラマとして貧弱になってしまうのだ。
脚本は那須真知子。2時間足らずの上映時間に全5巻の原作を詰め込むのは所詮無理な話ではある。しかし、無理は無理なりに何らかの工夫が必要だろう。単に原作をダイジェストにしただけで脚本家が務まるのなら、脚本家はなんと気楽な商売かと思う。那須真知子、監督と同じくSFに理解があるとは思えない。ならば、そういう仕事は引き受けるべきではなかっただろう。原作の飛鳥了は終盤まで自分の正体を知らない。映画では早々に正体をばらしてしまう。原作を思い切り簡略化した話で、それを見るに堪えない演出で語ろうというのだから、つまらなくなるのは目に見えている。
このほか、不動明とデビルマンの中間みたいなメイクアップがまるで意味をなさないとか、妖鳥シレーヌ(富永愛)の扱いが彩り程度のものであるとか、原作のラストの後に余計なメッセージを付け加えているとか、やり直したCGの場面が少ないとか、ボブ・サップやKONISIKIを使う意味が分からないとか、冒頭にある少年2人のシーンがお粗末すぎるとか、さまざまな不満な点がある。ついでに言うと、こんな雑な映画を作って公開する意味も分からない。こんなことなら、アニメでリメイクした方が良かったのではないか。
2004/10/08(金)「テイキング・ライブス」
マイケル・パイの原作にアンジェリーナ・ジョリーの役柄は登場しないそうだ。この映画、中盤まではサイコスリラーとしてまずまずの出来なのだが、終盤の展開がメタメタである。脚本家(ジョン・ボーケンキャンプ)がジョリー主演にするために書いたと思われる部分が物語の完成度を著しく落としているのだ。途中で(といっても終盤に近い)犯人が分かる構成はヒッチコックあたりを参考にしたのかと思ったが、その後の展開に今ひとつ工夫がない。ヒッチコックと言えば、音楽もバーナード・ハーマン風で、ジョリーが死体発見現場に横たわるシーンに流れる音楽は「めまい」を参考にしたかのよう。映画自体の完成度は決して褒められたものではないにもかかわらず、そこそこ楽しめた気になるのは一重にFBI捜査官役をカッコよく演じるアンジェリーナ・ジョリーのお陰だろう。ジョリーの場合、「トゥームレイダー」などでもそうだが、本人は好演し、好感が持てるのに映画としてはパッとしない出来の作品が多い。監督に恵まれていないのだ。
カナダのモントリオールが舞台。工事現場で絞殺され、両手を切断された死体が見つかる。モントリオール警察のレクレア(「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のチェッキー・カリョ。パンフレットの表記ではチェッキー・ケイリオ)はFBIに捜査協力を要請。単身乗り込んできたイリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)はプロファイリングに天才的なサエを見せる。イリアナはモントリオール警察のパーケット(オリビエ・マルティネス)、デュバル(ジャン=ユーグ・アングラード)とともに捜査を進め、事件の目撃者コスタ(イーサン・ホーク)を追及する。その頃、ある老婦人が警察に「死んだはずの息子を見た」と届け出る。その老婦人、アッシャー夫人(ジーナ・ローランズ)の息子マーティンは1983年、家出した後に事故死していた。気になったイリアナはアッシャー夫人を訪ね、マーティンが双子の兄のリースが死んだ後に家出したことを聞かされる。墓を掘り返した結果、埋葬された死体はマーティンではなかった。マーティンは20年間にわたって、次々に殺人を犯し、その人間になりすまして(人生を乗っ取って=テイキング・ライブス)生きてきたらしい。警察はコスタを囮にしてマーティンをおびき出す作戦を取る。コスタの周辺には謎の男(キーファー・サザーランド)がいた。
捜査を進めていくうちにイリアナはコスタに惹かれていく。一応の事件が解決した(と思われた)後、ホテルを訪ねたマーティンを迎え入れるイリアナの表情がいい。その後にある激しいラブシーンを予感し受け入れているようなアンジェリーナ・ジョリーのたたずまいは大人の女を感じさせる。アンジェリーナ・ジョリーに関しては十分に満足のいく作品なのだが、それだけに前半と後半とで別の映画のようになる腰砕けの脚本が残念すぎる。監督はD・J・カルーソー。劇場用映画は2作目らしいが、豪華キャストを生かし切れていない恨みが残る。アップを多用した撮り方だけは映画的だった。
アッシャー夫人が最初に出てきた時、そのファッションからしてジーナ・ローランズかと思い、いや、こんなにおばあさんのはずはないと思い返したのだが、やはりジーナ・ローランズだった。うーん、随分おばあさんになったものだ。
2004/10/06(水)「スクール・ウォーズ HERO」
不良の巣窟だった伏見工業高ラグビー部を日本一に導いた山口良治監督を描く熱血青春映画。テレビドラマを見る習慣はないので、山下真司主演のテレビ版は見たことがない。NHK「プロジェクトX」でも取り上げられたそうだが、それも見ていない。監督は関本郁夫。日本映画データベースにあるフィルモグラフィーを見て愕然とするのは、僕が劇場で見た関本監督作品は1本だけで、その「天使の欲望」(「涼子を殺す 殺します」という七五調の字幕が印象的だった)は、25年前の作品だった。すれ違いっぱなしの監督なのである。
「スクール・ウォーズ HERO」はその関本監督の30本目の作品に当たる。映画に新しい部分はない代わりにしっかりと作ってあり、熱い映画になっている。ラグビー部と熱血教師という設定はテレビや映画で何度も繰り返され、今の時代なら冷笑的にパロディとしてしか成立しにくい物語だが、時代が1970年代なので、熱血先生がラグビー部を精力的に立て直していく描写に少しも違和感がない。生徒との本音のぶつかり合いに素直に感動できる。一番褒めるべきは映画初主演の照英だろう。自身もスポーツマンである照英は恐らく、この物語を心の底から信じている。だから泣いたり怒ったりの演技が演技らしくなく、本当のように見える。その全力を傾けた姿勢に映画の中の生徒と同様、観客も心を動かされることになる。物語を信じている点では関本監督も同じなのだろう。映画に本物の感情とリアリティをもたらすのは、そうした作り手たちの姿勢なのだと思う。
1974年の京都。ラグビーの元全日本代表だった山上修治(照英)は実業団監督への誘いを断って市立伏見第一工業高に赴任する。荒れる生徒たちを擁護して、校長の神林(里見浩太朗)が言った「生徒たちは寂しいんや」という言葉に惹かれたからだ。しかし、高校は予想以上に荒れていた。酒やたばこは当たり前、校舎の中をバイクで走り回ったり、先生の服に火を付けたり、暴力沙汰も多かった。その不良の中心がラグビー部員と知った山上はラグビー部の監督になり、生徒たちに全力でぶつかっていく。なかなか信用しない生徒を見て落ち込む山上を支えたのは妻(和久井映見)の励ましだった。山上の努力で次第に変化が見え始めたラグビー部だが、京都府高校総体では1回戦で大園高校に112-0で完敗。生徒たちは山上に「俺たちをもっと鍛えてくれ」と泣いて悔しがる。生徒たちを一人ひとり殴って気合いを入れる山上の姿に感銘を受けた生徒たちは心機一転、猛練習に励むようになる。
こうしたメインプロットに映画はさまざまなエピソードを加えていく。京都一のワルと言われた“弥栄の信吾”(小林且弥)の体格を見込んでラグビー部に入れるため、山上が信吾の家を訪れたら、あばら屋に大酒飲みの父親(間寛平)がいる場面とか、その信吾と殴り合って絆を深める場面などはこうした青春ものによくある場面なのにこの映画では十分効果的だ。あるいは朝、校門に立って生徒たちに「おはよう」と声をかけ始めた山上に賛同して他の先生たちが加わる場面、生徒を殴ったために1カ月の謹慎処分を受けた山上のアパートを訪ねた生徒たちが山上を励ます場面などなどはいつかどこかで見た光景であるにもかかわらず、この映画では一直線に感動的である。
ラグビー部員を演じるのは無名の若手俳優ばかりだが、それぞれに懸命に演じていい味を出している。マネジャー役のSAYAKAは「ドラゴンヘッド」などより相当いい。試合場面にも迫力があり、この映画、決して手放しで傑作とは言えないけれど、その熱さだけは十分に観客に伝わってくる。熱血が空回りしない作品はまれである。
2004/10/01(金)「アメリカン・スプレンダー」
公式ホームページの作りは、サエない男のラブストーリーといった感じだが、実際にはハービー・ピーカーというコミック原作者の自伝的映画で、ラブストーリーの部分は大きくない。ハービーは自分の身の回りのことを書く、いわば私小説的なコミック作家。病院の書類係で2度の結婚にも破れた男がコミックの原作を書くことで、ささやかな幸福を得るという話である。
といってもサエない日常にそれほどの変化はない。監督のシャリ・スプリンガー・バーマンとロバート・プルチーニはドキュメンタリー作家だから、物語よりもハービーという人間を浮かび上がらせることに重点を置いている。俳優とコミックの絵と実際のハービー・ピーカーまで登場させる手法は面白く、映画製作の過程まで見せる。このあたりがアカデミー脚色賞にノミネートされた理由だろう。脚色の過程を描いたスパイク・ジョーンズ「アダプテーション」を思い起こさせる手法だが、違うのは「アダプテーション」が終盤、フィクション性を高めたのに対して、この映画は事実に近づいていくこと。実際のハービーがたびたび登場して物語に解説を加えており、こういう表現方法によって、物語自体の求心力はやや薄れたような気がする。「アメリカの輝き」というタイトルとは裏腹にアメリカの小さな日常を描いた映画になっている。
クリーブランドの退役軍人病院の書類係として働くハービー(ポール・ジアマッティ)は2度目の妻にも逃げられ、退屈な日々を送っていた。ある日、ハービーは近所のガレージセールでロバート・クラム(ジェイムズ・アーバニアク)と知り合う。クラムは異色のコミックを書き、やがて「フリッツ・ザ・キャット」の作者として有名になる。ハービーも一念発起して自分の日常を書くことにする。絵は描けないので、コミックの原作だが、それを読んだクラムは「傑作だ」と評価する。「アメリカン・スプレンダー」と題して出版したコミックはマスコミでも高い評価を受ける。デラウェア州でコミック書店を経営するジョイス(ホープ・デイヴィス)は自分のために取っておいた「アメリカン・スプレンダー」を相棒に売られてしまい、ハービーにコミックを譲ってくれないかと手紙を書く。それをきっかけに2人には交流が生まれ、クリーブランドにやってきたジョイスとハーピーは結婚することになる。テレビの人気番組にも出演するようになり、ハーピーは有名になるが、ある日、がんに冒されていることが分かる。
ハービーは妻の協力でがんの闘病記までコミックにする。この闘病記はさらりとした描写で、映画の狙いがこんなところにはないことを示している。監督2人の頭にあったのはあくまで、普通のダメな中年男の生き方であり、ハービーその人を描くことだったのだろう。ハービー・ピーカーがアメリカでどのくらい有名なのか知らないが、この内容から見てコミック自体はそれほど売れているわけではないと思う(当初は自費出版だったそうだ)。それでも世のダメな中年男の共感を得る部分は大きいようだ。
主役を演じるポール・ジアマッティは実際のハービーと風貌がそっくり。原作者がテレビに出る場面はそのまま当時のビデオが使われているが、全然違和感がない。このほか、NERD(おたく)のトビー役のジュダ・フリードランダーなど話し方まで実際のトビーをそっくりにまねている。