2013/03/26(火)「砂漠でサーモン・フィッシング」

 イエメンの大富豪シャイフ・ムハンマド(アマール・ワケド)が主人公で水産学者のアルフレッド・ジョーンズ(ユアン・マクレガー)に言う。

 「友よ、残念だったな」

 「いいえ、奇跡です」

 「ああ。しかし、残念だ」

 アルフレッドがイエメンで鮭を放流するプロジェクトを通じて知り合い、次第に思いを寄せるようになったハリエット・チェトウド=タルボット(エミリー・ブラント)。ハリエットの恋人ロバート・マイヤーズ(トム・マイソン)は砂漠の戦場でMIA(戦闘中行方不明)になっていたが、奇跡的に生きていたことが分かったのだ。首相広報担当官のパトリシア・マクスウェル(クリスティン・スコット・トーマス)はプロジェクトのPRを目的にロバートをイエメンに連れて行き、ハリエットと再会させる。しっかりと抱き合う2人を見て、シャイフが言うのが上のセリフだ。アルフレッドはその前日に「僕たちの間に実現可能性はあるかな」と思いを打ち明けたばかりだった。

 ポール・トーデイの原作「イエメンで鮭釣りを」を「スラムドッグ$ミリオネア」のサイモン・ビューフォイが脚本化、ラッセ・ハルストレムが監督した。ウィットに富んだセリフをちりばめ、ハッピーエンドを希求するビューフォイの脚本がまず、うまい。ハルストレムの演出も手堅いので、佳作に仕上がっている。

 エミリー・ブラントは憂いを含んだ表情が良く、ユアン・マクレガーはいつものように少しコミカルな水産学者を演じている。この2人とアマール・ワケドの好感度の高さが映画の好感度にもつながっている。

2013/03/17(日)「バトルシップ」

 宇宙からの物体がハワイ沖に落下するまで30分余り。DVD OR ブルーレイで見る場合はここまで早送りにして何らかまわない。そこからは戦闘シーンのみ。VFXはまずまずなので、見ていて退屈はしない。しかし、話にオリジナリティーが乏しいのは減点対象だ。1時間半ぐらいで描ける内容。

2013/03/03(日)「ふがいない僕は空を見た」

 「恋の罪」がR18+なのはよく分かるが、これのどこがR18+なのだろう。これでR18+の判定になるのなら、描写を少しソフトにして高校生でも見られる映画にした方が良かったような気がする。昨年は「ヒミズ」「桐島、部活やめるってよ」と青春映画の傑作があったが、この映画もそれに連なる、そして少しも劣らない厳しい傑作だと思う。キネマ旬報ベストテン7位。

 問題は何も解決しない。しかし、登場人物達は受けたダメージから、厳しすぎる現状から、なんとか立ち上がろうとする。スキャンダルに巻き込まれ、不登校だった主人公は学校に行くようになり、その親友は大学を目指して図書館で辞書をめくる。

 「俺にはとんでもない部分があるから、とんでもなく人に優しくしなくちゃいけないんだ」。

 「バカな恋愛したことないやつなんて、この世にいるんすかねえ」というセリフを吐くみっちゃん先生(梶原阿貴)のがらっパチなたくましさが良く、主人公の母親で助産師の原田美枝子の包容力がいい。

2013/02/18(月)「ゼロ・ダーク・サーティ」

 ビンラディンを極悪人として描けなかった、そもそも何も描けなかったことが一般的な娯楽映画の気分からほど遠い要因なのだと思う。普通のアクション映画の悪役は当然倒されるべき存在として描かれる。敵を倒す主人公の行為の正当化にはこれが不可欠だ。もちろん、脚本のマーク・ボールも監督のキャスリン・ビグローもビンラディンを単純な娯楽映画の悪人として描くほど愚かではないから、そんなことはしなかった。映画の冒頭に貿易センタービルで亡くなった人たちの最後の痛切な会話を流すことで、ビンラディン=倒すべき悪、と規定している。何の罪もない3000人近い人の命を奪う作戦を指揮したのだから、これは当然と言えるかもしれない。

 しかし、と思う。ビンラディンはどういう人間なのか、アメリカを憎むアルカイダの論理はどんなものなのかを少しでも描いていれば、この映画はもっと充実していたに違いないと思う。この映画に登場するアルカイダは正体不明と言ってよいぐらい何も描かれない。別にアルカイダの肩を持てと言っているわけではない。アメリカ映画なのだからアメリカ側の視点で作られるのは当然だが、この映画の視点は狭すぎると思うのだ。イラク戦争の爆弾処理班の兵士だけを描いたビグローの前作「ハート・ロッカー」と同様、全体を見渡す視点に欠けている。例えば、デヴィッド・O・ラッセルは湾岸戦争を舞台にした映画「スリー・キングス」でアメリカ兵を拷問するイラク兵に、空爆によって家族を失ったというセリフを言わせていた。視点を多角化するそういう部分が重要なのである。

 主人公のCIA分析官マヤ(ジェシカ・チャステイン)はビンラディンを執拗に追う。途中から同僚をテロで殺されたという私怨が含まれてくるにせよ、10年間追い続ける理由としては説得力が足りないように思う。ここで思い出すのは「オデッサ・ファイル」(1974年、フレデリック・フォーサイス原作、ロナルド・ニーム監督)だ。この映画、主人公が逃亡したナチスの高官を追う本当の理由が最後に明らかになって膝を打ったものだ。そうか、それならそこまで執念深く追いかけるのも仕方がないよな……。敵を追い詰める主人公の行動原理にはそうした強く差し迫った動機が必要だろう。

 アメリカ政府が公式には否定している拷問のシーンがあるからこれは社会派の映画だろうか。違う。主人公が作戦を完遂しても空しい気持ちになるから、これは社会派の映画だろうか。それも違う。社会派の映画には批判の矛先が必要だ。この映画はそれがあいまいなのである。同時テロからビンラディン暗殺まで10年間のアメリカ側の捜査(拷問、拷問、拷問)を描いただけであり、拷問批判が狙いなら、クライマックスの襲撃場面にあんなに力を入れる必要はない。実際、ビグローの演出はこのクライマックスで本領を発揮する。基本的にビグローはサスペンスとアクションの人だ。社会派的な題材を取り上げるのであれば、得意のアクションの組み立てと同じぐらい緻密に構成を考える必要があった。

 ちなみにこのクライマックス、屋敷が高い塀に囲まれていることもあって、赤穂浪士の討ち入りを思わせた。赤穂浪士にとって吉良上野介は主君を死なせた憎むべき敵だが、吉良上野介にとってみれば、赤穂浪士は屋敷に押し入ったテロリスト集団だろう。

 見終わって、なんだか宙ぶらりんにされたような釈然としない気持ちが残る。部分を描いて全体を映し出す手法は確かにあるが、この映画では成功していない。

2013/02/11(月)「希望の国」

 このサイテーの映画がキネ旬ベストテン9位に入ったということに驚くほかない。

 底の浅い脚本、問題を深化していかない脚本、取材不足が露呈する脚本(あるいは取材が消化できていない脚本)に大きな欠陥がある。原発近くに住む両親は自殺し、原発から遠く避難した息子夫婦は元気を取り戻す。この単純な展開に唖然とする。放射能に汚染された地域はさっさと捨てましょうね、他の地域にはまだ希望がありますよというメッセージにしか見えないのだ。

 このストーリーのどこに希望があるのか。「一歩、一歩、一歩、一歩」と言いながら雪の中を歩く男女にかぶさって「希望の国」というタイトルが出るのを見て、小学生でも考えつきそうなアイデアをよく恥ずかしげもなく描けるなと思った。

 昨年放映されたNHKの番組で福島の人たちを対象にしたこの映画の試写の様子が紹介されていた。見た人から「なぜあんなラストにしたんですか?」と質問が出たが、映画を見てその質問の理由が分かった。答えも分かった。監督がバカだからです。

 何より腹立たしいのは映画が長島県という架空の県を舞台にしていることだ。長崎と広島を合わせた名前というのもふざけているが、なぜ福島県にできないのだろう。これでは現実と向き合う姿勢を放棄したとしか思えない。