2010/05/03(月)「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」
6年ぶりの続編。前作の感想を読み返してみたら、前作は2010年が舞台だったのだった。今回はそれから15年後、2025年の設定。ゼブラーマンこと市川新市(哀川翔)は記憶を失い、路上で目ざめる。そこから何があるかというと、ゼブラシティと名前を変えた東京での戦い。都知事の娘ゼブラクイーン(仲里依紗)との戦いである。まるで「ストリート・オブ・ファイヤー」のダイアン・レインを思わせるように刺激的な仲里依紗以外に見るべきものがないのが悲しいところだ。
前作はスーパーヒーローもののパロディを思わせる展開ながら「信じれば、夢は叶う」というモチーフを軸に据えて充実した出来だったが、今回は相当に落ちる。宮藤官九郎の脚本が弱い。白ゼブラと黒ゼブラの合体のシーンなど爆笑もので、三池崇史の趣味は全開なのだけれど、細部で笑わせられても、話の本筋がこれでは映画は盛り上がらない。仲里依紗のみを見るべき映画であり、それでも入場料金ぐらいの元は取れるのだけれど、映画としては喜べない出来に終わっている。
2010/05/01(土)「タイタンの戦い」
特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンが担当した1981年の同名作品(デズモンド・デイヴィス監督)のリメイク。旧作は見ていない(公開当時の評判は良くなかった)が、「アルゴ探検隊の大冒険」などハリーハウゼンの一連のダイナメーションにはやっぱり驚いた経験がある。有名な骸骨と人間の戦いなどは作り物であることが見え見えであっても、それを長時間かけて実現した作りの苦労自体が感動の源になっているのだ。今回の新作は出てくる怪獣・怪物たちがCGで描かれているにもかかわらず、巨大サソリと人間の戦いの場面などに不自然さを感じる(わざとそうしたという説もある)。人間の俳優が絡む場面はいくら技術が進歩しても難しい部分があるのだろう。これを回避するにはフルCGで描けばいいが、それではアニメと変わらなくなる。
とはいっても、この映画、VFXは全般的に水準を保っており、特にクライマックスに登場する巨大なクラーケンの造型などは面白く、なかなか全貌を見せない撮り方も良い。蛇女メデューサの動きの速さはダイナメーションでは表現できない部分だろう。「トランスポーター」「インクレディブル・ハルク」のルイ・ルテリエ監督だけにアクション場面にも抜かりはない。だが、平凡な印象が抜けきらない。同じくデミゴッド(半神)が主人公でメデューサが登場した「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」に比べれば面白く見たが、物語の部分がダイジェストにしか思えないのだ。いくらCGが進歩しようと、ドラマをしっかり組み立てなければ映画は面白くならないというのをあらためて感じさせられる作品と言える。
主人公のペルセウス(サム・ワーシントン)は全能の神ゼウス(リーアム・ニーソン)とアルゴス国の前王妃との間に生まれたデミゴッド。怒った前国王に母親とともに海に流されたところを漁師に助けられて成長する。ゼウスは兄で冥界の神ハデス(レイフ・ファインズ)の提案を受け、神に戦いを挑んだ傲慢な人間たちを懲らしめることを決める。ハデスは現在のアルゴス国王に10日後に海の怪物クラーケンを放ち、国を滅ぼすと宣言。それを回避するには王女アンドロメダ(アレクサ・ダヴァロス)を生け贄に捧げなくてはならない。育ての親をハデスに殺されたペルセウスはアンドロメダを助けようと、クラーケンの退治法を探るため魔女のもとを訪れる。
映画が今ひとつの出来に終わったのは育ての親を殺されたペルセウスの怒りがあまり伝わってこないからか。ルイ・ルテリエの演出はエモーショナルな部分に弱さを感じる。型どおりの演出なので、情感が高まらないのである。主演の「ターミネーター4」「アバター」のサム・ワーシントンはこうしたVFX大作にすっかりなじんできた感がある。特にハンサムとも思えないのに引っ張りだこなのが不思議だが、この映画でも可もなく不可もなしのレベルの演技を披露している。
2010/04/11(日)「第9地区」
主人公ヴィカス・ファン・デ・メルヴェ(シャルト・コプリー)が第9地区でエイリアンの謎の黒い液体を浴び、徐々に肉体がエイリアン化していく過程を見て、まるで塚本晋也「鉄男」のようだと思った。「鉄男」はホラーだったが、「第9地区」は社会派の要素も取り込んだSFエンタテインメント。難民キャンプに押し込められた180万のエイリアンたちは人種差別や難民差別を容易に思い起こさせる。
この構成はエイリアンの科学者への弾圧をユダヤ人迫害に見立てた1980年代のテレビドラマ「V」の例もあるので、目新しいとは言えないし、これがテーマかと言えば、むしろエイリアンと地球人の相互理解と交流の方が中心になっていて、それならば、過去の映画にたくさんの例があるなと思うのだが、過去のSFの模倣に終わらせず、さまざまな要素を独自の物語の中に溶け込ませている点が良く、きっちりと作っている点に好感を持った。枝葉末節にオリジナルな部分は少ないにもかかわらず、全体としてはとてもオリジナリティーを感じる作品だ。
クライマックスに活躍するパワードスーツが超国家機関MNU(マルチ・ナショナル・ユナイテッド社)の傭兵から大量の銃弾を浴びせられて倒れるシーンは「ロボコップ」を思い起こさせ、実写のパワードスーツと言えば、「エイリアン2」のパワーローダーが嚆矢だよなと思っていたら、監督のニール・ブロムカンプはSF映画のファンであり、好きな映画の中にこうした作品も入っているそうだ。ついでに言えば、倒れたパワードスーツがプシューっと開き、中の人間が顔をのぞかせるシーンの呼吸は「パトレイバー」や「攻殻機動隊」など日本製のロボットアニメの数々を参考にしたのに違いない。監督自身は「攻殻機動隊」と「アップルシード」の影響を認めている。
そうした過去の映画のエッセンスを31歳のブロムカンプは血肉にしているのだろう。次作は大量のロボットが登場する映画ということを聞けば、架空のニュース映像で構成される序盤は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド HAKAISHA」などPOV(ポイント・オブ・ビュー)の映画ではなく、これまた「ロボコップ」の方が頭にあったのかもしれないなと思う。ヨハネスブルグ上空に浮かぶ巨大な宇宙船の光景はとてもシュールだ。そのシュールさ、日常の中の非日常にリアリティーを持たせるためのニュース映像の手法なのだろう。
エイリアンたちは強力な武器を持っているが、DNAが合致しないと動作しないため人間には操作できない。体の一部がエイリアン化したヴィカスにはそれが可能なため、ヴィカスを巡る争奪戦がメインプロットになる。争奪に加わるのは軍事企業の側面を持つMNUと、第9地区に住むナイジェリア人のギャングたち。恐ろしいことにヴィカス個人の命など何とも思ってない非情な連中である。スラム化した猥雑な第9地区を舞台に中盤からは三つどもえのアクションに次ぐアクションとなる。序盤がやや退屈なのは中盤以降の展開に説得力を持たせるタメの部分だからなのだろう。28年間、静止していた宇宙船がついに動き出すクライマックスとヴィカスの運命。さまざまな問題点を残したまま映画は終わり、続編に期待を抱かせる。
ブロムカンプの本当の評価も次作の出来がカギを握るだろうが、SF好きの監督が出て来たことはSFファンとしてはとても嬉しい。
2010/04/03(土)「花のあと」
いくらなんでも以登(北川景子)の表情の乏しさは欠陥以外の何ものでもないだろうと最初は思った。表情や感情に乏しいのは以登が剣の試合で一瞬心を通わせる江口孫四郎(宮尾俊太郎)も同様で、人なつっこい笑顔を見せ、表情豊かな片桐才助(甲本雅裕)が登場してからは、なおさらこの2人の演技の未熟さが目立ってしまう。しかし、同時に2人の純情さ、若さゆえの一途さが浮かび上がることにもなっている。
この一途な2人に比べると、食欲旺盛でやや下品な片桐は当初、俗物にしか見えないのだが、映画が肯定しているのはむしろ、片桐の姿にある。物事の判断が大人であり、懐が広い。片桐は人間的な幅の広い魅力を備えていることが徐々に分かってくるのだ。ラストのナレーションで片桐が筆頭家老にまで上り詰めたことが言及されるが、確かにそれにふさわしい人物のように描かれている。表情に乏しかった以登がラストで満開の美しい桜を見限って片桐の方を向き、初めて笑顔を見せるのは、だから当然なのだろう。以登は一瞬の恋心を経て、人間の本質と本当の愛を知ることになるのだ。それを考えると、生硬と言いたくなる北川景子の演技も中西健二監督の計算のうちだったのではないかと思えてくる。
藤沢周平の短い原作は以登と孫四郎の関係が中心である。「恋などというものは、そなたらが夢みるようにただ甘し、うれしのものだけではないぞや。いっそ苦く、胸に苦しい思いに責めらるるのが、恋というものじゃ」。映画にもあるこのナレーション通りに、女剣士以登と羽賀道場で一番の使い手である孫四郎の一瞬の恋の行方を描いている。原作の以登は美人とは言えず、容貌を気にしている。孫四郎もハンサムな男ではない。美男美女をキャスティングした映画はまずそこから作りを変えており、それもまた片桐の魅力を強調するためだったのではないかと思う。
打ち合っているうちに、以登はなぜか恍惚とした気分に身を包まれるのを感じた。身体はしとどに濡れ、眼がくらむような一瞬があったが、その一瞬の眼くらみも、不快感はなくてむしろ甘美なものに思われた。照りつける日射しのせいだけではなかった。どうしたことか、身体は内側から濡れるようであり、恍惚とした気分も、身体の中から湧き出るようである。
孫四郎との試合で原作の以登はこういう高ぶりを覚える。桜の下で声をかけられ、孫四郎と試合がしたいと思った以登の気持ちは実は孫四郎を恋する気持ちだったわけだから、それが成就したことの高揚感がこうなるのは実に理にかなっている。映画はこれを「俺たちに明日はない」のボニーとクライドのように視線を交わす2人に象徴させている。これはうまい場面だ。このほか、原作の行間を埋め、細部を膨らませた脚本は良い出来である。
しかし、この映画の成功がそれ以上に甲本雅裕の存在にあるのは間違いない。初めは眉をひそめたくなるような振る舞いがそのうちに思わず微笑みたくなってくる。以登や孫四郎のように一直線の人間にはないぬくもりが感じられて好ましいのである。映画を支えるしっかりした演技だと思う。
2010/03/22(月)「ハート・ロッカー」
イラク戦争の爆発物処理班を描いたサスペンス。アカデミー作品、監督、脚本賞など6部門を制した。それだけではなく、ロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンと全米の批評家協会が作品賞を与えた。アメリカ国内では高い評価を受けている。では、これが傑作かと言うと、映画の技術に限れば、という条件が付くことになる。爆弾処理という狭い範囲を完璧に作っただけで描かなかったものの方に重要なものがあるのだ。
キネ旬の特集記事によれば、イラク戦争の映画はことごとくアメリカの観客に受け入れられなかったが、この映画だけは受け入れられたそうだ。それも当然の内容と思う。戦争の意味に目をつぶり、米軍内の、それも爆発物処理だけを描いて何の意味があるのかと思う。これならば、アメリカ侵略主義への批判を内包した「アバター」の方がまだ志は高い。定点観測をすることで、全体の問題を浮き彫りにする手法はあるのだけれど、この映画の場合それもない。批判精神に欠けた、ただのエンタテインメントに近い映画であり、ある意味、イラク戦争肯定映画的な内容と言っていい。だから米国民ではない我々としては見ていて不満がむくむくと頭をもたげてくるのである。
キャスリン・ビグローにとってはメルトダウンの危機に瀕したソ連の原子力潜水艦乗組員を描いた「K-19」から7年ぶりの監督作品。狭い範囲を描く手法は「K-19」と同じなのだが、アメリカがイラクで行ってきたことを思えば、この手法では物足りなくなる。ふと思い浮かべたのはマイケル・チミノ「ディア・ハンター」で、あれもベトナムの民族解放戦線をまともに描いていなかった。あの映画の場合、米国内でも批判が噴出したのだが、今回、それがないのはイラク戦争がベトナム戦争よりまだ短い期間だからか。あるいは慎重に批判を封じるような作りになっているからか。描かなかったことに対する批判はできても、少なくともこの映画に描かれたことに重大な間違いはないのだろう。
2004年夏、イラクのバグダッド郊外が舞台。主人公はブラボー中隊に配属されたウィリアム・ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)。これまでに873個の爆弾を処理してきたベテランだ。映画は冒頭、防護服を着た爆弾処理兵が爆風に巻き込まれて死ぬ場面を見せる。防護服を着ていたからといって、安全ではないのだ。中隊は次々に爆発物を処理し、その緊張感と危険が十分に描き出されていく。中盤、800メートル離れた敵の狙撃手との行き詰まる攻防のシーン(見ていて「山猫は眠らない」を思い出した)などにビグローの演出は冴え渡る。女性監督なのに男っぽい演出に長けた監督である。この人、恋愛映画など軟弱な映画は撮ったことはなく、いつも題材は男っぽい。そしていつもエンタテインメントだ。シーンを的確に撮ることは得意だが、社会派的な題材の処理には慣れていないのだと思う。
「戦争は麻薬と似ている。一度味わうとクセになる」という冒頭の字幕に呼応する行動を主人公は取る。問題はどこが麻薬と似ているかを十分には描いてくれなかったことだ。死と隣り合わせの戦場に麻薬に似た快楽を覚える変わった兵士も中にはいるかもしれない。しかし、大部分にとっては恐怖以外の何ものでもないだろう。それを麻薬と言い切る内容は映画では描かれなかった。どこか歪な印象を受けるのはこうした映画の作り自体に無理があるからではないか。